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連絡のフォームの片隅に、少しだけ私の心に響く詩を添えさせてください。
杜甫の「秋述」という一篇から、私が特に心惹かれた部分です。
況吾與老而病也。
ましてや私は、老いて病気でもある。
故吾室無壁。四壁蕭然。瓦冷無烟。
だから私の部屋には壁がなく、四方の壁はひっそりとして寂しく、瓦は冷え切って煙も立たない。
今歲麥稔。秋苗枯槁。
今年は麦は豊作だったというが、秋の苗は枯れ果てている。
風雨交加。天陰雲結。
風と雨が入り乱れて降りしきり、空は曇って雲がたれこめている。
日短晝長。地僻人稀。
日は短く、昼は長く感じられ、人里離れた土地で人はまばらだ。
茅屋不葺。柴門不閉。
茅葺きの屋根は修繕されず、粗末な木戸は閉まらないままだ。
牀上屋漏今不免。泥他到枕苔痕點。
寝台の上では、雨漏りが今も止まず、泥水が枕元にまで届き、苔のしみが点々とついている。
階前雨足常時。草色深濃。竹影青葱。
階段の前では雨が常にたっぷりと降り、草の色は深く濃く、竹の影は青々と茂っている。
而我之病。未嘗一間。
しかし私の病は、少しも治まることがない。
朝來鼓聲急。吏部車馬何翩翩。
朝になって鼓の音が急に響き、吏部(りぶ)の官僚の車馬が何と鮮やかにやってくることか。
旧雨来。新雨不来。
旧い友人が来てくれた。新しい友人は来なかった。
旧雨来。猶有泪。
旧い友人が来てくれた時、私はなお涙をこぼした。
新雨不来。亦無怨。
新しい友人が来なくても、何も恨むことはない。
じめじめと雨が続く日、ふと杜甫の「秋述」という一篇の漢詩文を思い出しました。この中で語られる「旧雨」という言葉に、今の私にも響く友情のあり方を教えてくれます。
杜甫がこの詩文を書いたのは、彼が老いて病を患い、粗末な家屋に身を寄せていた頃のこと。雨漏りがひどく、寝台にまで泥水が染み込み、苔が生えるような悲惨な状況でした。
そんな中、彼のもとを訪れたのは、昔からの友人。この情景を描いたのが、上記の部分です。
この詩文の中で、杜甫は「旧雨来。新雨不来。」(旧い友人が来てくれた。新しい友人は来なかった。)と綴っています。
この一節から、「旧雨」が昔からの変わらない親しい友人を、「新雨」が最近知り合った友人を指す言葉として、使われるようになったと言われています。
面白いことに、中国語では「友(yǒu)」と「雨(yǔ)」の発音が似ているんです。杜甫は、この音の響きに加えて、降り続く長雨と自分に降りかかる病の苦しみを重ね合わせ、友人を「雨」と表現したのかもしれません。私の日本語訳でも、この詩の情景を際立たせるため、雨が降りしきる中に友人の存在を感じられるような表現を意識しました。
困難な時にこそ真価が問われるのが友情。杜甫は、苦しい時に訪れてくれた旧友に涙し、来なかった新友には恨み言一つ言わない、という達観した姿勢を見せています。
彼のこの言葉は、友人関係が多様化した現代に生きる私たちにも、大切なことを教えてくれているように感じます。