大根の収穫が間近〜!
つやつやの白い肌に元気な葉っぱ、見るだけでうきうきしてくる
冬の大根もいいけど、今の季節だって食べたいよね
さて、どんな料理にしようかな?おでん?サラダ?それとも煮物?

遠藤曰人の一句に、こんな歌があります。
宮城野を 大根を植えて へらしけり
私はこの句を、最初はずいぶんのどかに解釈していました。
――大根があまりにも美味しくて、つい夢中になって植えていたら、いつのまにか広い宮城野が畑に取って代わられてしまった――
そんな微笑ましい情景を想像して、ふっと頬が緩んだものです。
けれど、本当の意味を知ったとき、その明るいイメージは静かに崩れていきました。
仙台という地は、江戸時代に三度の大飢饉に見舞われました。
人々は飢え、野に草を求め、やがて力尽きていきました。
その悲劇の痕跡として、私は仙台のあちこちに点在する「叢塚(くさむらづか)」を知っています。
それは名も知れぬ幾万の命が埋められた場所。
宮城野の道を歩き、城下町の炊き出しを目指しても、辿り着くことなく倒れた人たち。
そのような方々が、この塚に眠っているのかもしれません。
「仙台にはぺんぺん草さえ生えなかった」――
そんな言葉が残るほど、当時の飢饉は苛烈を極めていたといいます。
「大根を植えて、宮城野を減らしてしまった」というこの句は、
生き延びるために、野を切り拓き、畑を広げ、根を張って育つ命を求めた、
人々の必死の営みを詠んだものだったのです。
私は、その背景を知らず、ただ「美味しいから植えすぎた」などという、浅はかな解釈をしていました。
叢塚の存在を知っていながら、その声に耳を傾けることをしなかったのです。
歴史は、静かに語りかけてきます。
詩や歌に込められた言葉は、その土地に生きた人々の切実な記憶を映し出します。
それに気づけた今、私はこの一句を、二度と同じようには読めないでしょう。